電車は家路を急ぎ

電車の先頭部分には、運転室があり、その後ろには椅子のないスペースがある。そこはたまにちょっとしたステージとなり、電車のアナウンスを完全コピーする人(なぜか男性が多い)や、スマートフォンで電車の前から望む風景動画を手ブレ防止装置など信じるかコラ!といわんばかりに脇を締め、撮影している人の姿を見ることができる。普段車を使い移動する私にとっては、それをたまに見る機会を得ると、ちょっとうれしい気分になる。
私はちょっと意地が悪い。まあ、見た目は大人のフリをして、自分の考える「できる感じ」の格好をしていて、分不相応なスーツを着て革靴をコツコツ鳴らしたりしているが、それは今までの経験から、ある程度ちゃんとできる感を出していると、多少破綻した行動をとっても、「なにか意味があるのかもしれないし、それほど害はなかろう」と思ってもらえるからやっているだけで、本質というか中身はどん底である。

アナウンスコピーマンがそこにはいた。私は早めに快速に座れるようにホームにて待っていたのだが、コピーマンが乗車してきたのを見て、何も考えずに席を立った。コピーマンのそばで涼しい顔で立っている。

もうすぐ電車は蟹江という駅に着く。アナウンスが告げる頃だなというタイミングで私はちいさな声で「かぁにえ、かにえにとうちゃぁくしますフゥー」とコピーマンの耳元で囁く。私の顔を凝視するコピーマン。私のアナウンスのコピー加減も今までの三駅で学習済みである。コピーマンとの静かな、厳しい戦い。毎日の楽しみを奪ってしまい、それはいいことではないと知りつつも、この世の中にコピーしたいのは自分だけではない。しかも普通に見える人でもその欲望を持っているということを知るということを理解することで、世界や思考は変わらないかもしれないが、この世の中という大きいような小さいような池の中で、一瞬の波紋がちいさく発生してそして終わりのタイミングさえも知らせないうちに消えてゆくのを体感することになる。

私の予想もしなかった発声により、コピーマンの「蟹江」アナウンスは生まれないままだった。でも。次の駅では私が先んじてまた自分の領分(到着のアナウンスのコピー)を奪い取るかもしれないという可能性を知ったコピーマン。

周りの乗客は、静かな戦いが起きていることを知ってか知らずか、それともアンタッチャブルな領域ということを意識してか全くレスポンスはない。

電車は風切音を立て、川を渡りそろそろ次の駅に到着するタイミングとなる。コピーマンの顔をあまりじっと見ないように注意深く動きを観察する私がそこで荷物を足元に置き、次の一手を準備している。コピーマンがスウッと息を吸い込み、発声が始まる「つぅぎぃ…」という音が耳に入った瞬間、私はユニゾンで発声かつ追いかけ、追い越すスピードでアナウンスの言葉をちいさく、ウィスパーボイスで囁き、先行すれば言い切れると思ったコピーマンの考えを予想を超えた方法で追いきり、先に言い終わる。私の発声を耳に入れた段階でそちらに耳をとられたコピーマンは始めた自分の発声を途上で止めてしまう。

しかし、次の駅でのアナウンスは、コピーマンが下車しなければ、私が発声できずに負けたという体を取るつもりでいる。そうすれば一勝・一判定勝ち・一敗でバランスが取れるのじゃないかと全く無駄なことを思う。

こんなことを実際にするのは私ぐらいなのだろうか。さっぱりわからないけれど、こういうことも世の中には知らないうちに静かに起こっているという意味も教訓も何もない話。

電車は大きくカーブし、つり革につかまっている人たちの疲れた体は、ゆったりと右に傾いで、元の体勢に戻る。そしてドアのプシューッという音を耳にして、私はイヤフォンを耳に挿し、普通の乗客に戻り、普通の生活が続いてゆく。
明日は私はここにはいない。明日はアナウンスを心ゆくまでやり切ってほしい。人生は続く。

電車は暗くなった線路を規則正しい音を立て、家路へと急ぐ。