鉄筆



いくつか見たり聞いたりした話を書きます。別になんの教訓も意味もありません。忘れないように書きます。どんどん忘れて、なくなってしまいそうな気がするから。
ふとしたきっかけで知り合った大野君は、とても几帳面な性格で、自分のロッカーの上に文庫本をきれいに並べ、一冊毎に柔らかくなめされた皮の背表紙で包んでいました。
私は自分の本をすべて読み終わってしまい、新しい本が読みたかったので、午後に談話室にいた大野君に本を貸してくれないかと頼みました。二つ返事で「いいよ」とのことで、二人してその足で大野君の部屋でなにがあるのか見に行きました。ちょっとせっかちな性格です。
「どれでもいいよ、見て」と大野君は、私が本の中身を見るのをうれしそうに見ていました。きれいな革表紙の中にあったのは、夏目漱石内田百輭宮沢賢治萩原朔太郎などの古い作家の本でした。私は正直、もっと面白かったり笑えたりするような本が読みたかったので、ちょっとガッカリしました。大野君はあまり興味を持ってないような私の態度に敏感に気づくと「読んでみたらすっごい面白いって!言葉の響きになれたら、最近のものとは全然違った良さがあるって」と一生懸命に死んだ作家達のアピールをしていました。私も貸してくれといった手前、内田百輭萩原朔太郎の詩集*1を選びました。
大野君は「さすが!お目が高い!」などと、無駄に私を持ち上げるような態度でした。「よかった!ここにも文学好きがいて。同士ですね」それほど同士じゃないけれど、なんとなく私も笑ってそうだよと言いました。

「このカバーきれいだね」と私が言うと、大野君の説明スイッチがパチンと入ったように目が輝いて、「これ、市内でカバン職人やってる友達が皮の余りをくれるで、それを自分切って、なめして作ってるんや」とうれしそうに笑いました。なめし方のコツとか、ひと息に切らないと断面がギザギザで劣化しやすいとか私にはあまり使えそうにない豆知識を教えてくれました。
大野君はなんでも自分で作るようで、すこし傾斜のある斜めの作業台*2もタンスの廃材と近所の家が取り壊しになるときの木材を使って作ったそうです。

「これ、見てみ!」と誇らしげに私の前に差し出した大野君の手は、タコがいっぱいあり、指の腹に切り傷が治った後やなんかでボロボロで固い、インクがしみたような手でした。職人の手です。ひとつひとつの傷についての痛い話を詳細に説明してくれました。私が話を聞いて痛そうな顔をすると、無上の喜びのようにキャキャキャと笑います。
「これは大変やね、なにしたらこうなるん?」と訊くと、さみしそうに「切れないのこぎり、小刀、鉄筆とか使ってるとね…金ないと、いい得物買えないしね」

私は聞いたことがない言葉、鉄筆というものに引っかかりを感じ「鉄筆ってなに?」と質問しました。これが大野君と私との話の始まり。



その時にあった本

端正な言葉で、たくさんの色が見えるような夢の話。
文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

書影はなかったけど、内田百輭/サラサーテの夜?ないのかな?googleで探しても見つからない…幻?
(追記)見つかりました。(リンク)differenciaさんありがとう。
ちょっと奇妙な雰囲気を持った、中国の話を含む短編集。


子どもの時、猫の映画で見たものとはイメージが全然違いました。

新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

萩原朔太郎詩集 (岩波文庫)

萩原朔太郎詩集 (岩波文庫)

*1:詩集は、手っ取り早く読み終わるかと思って

*2:ドラフターみたいなもの?