世界の中心は天六

大阪に天神橋筋六丁目(これ以降は天六と省略)という町があります。名前の中に、ヘブン・ゴッド・ブリッジ・ストリート+魔の数字としての6と、無駄にありがたさがあふれています。大阪の中心にあたる場所で、五差路の交差点があり、難波から梅田、西から東へと移動していく中間地点になっています。分かりやすく他の土地に置き換えて説明すると、渋谷のスクランブル交差点や、パリのコンコルド広場*1、渋川の新町、麻生の五差路と同じようなものにあたります。ただ、渋谷やコンコルド広場と違うのは、天六には古い商店街と、ハッテンバ、お墓、時期外れのロードショーがかかる映画館ぐらいしかないという点です。

そんなありがたい名前で大阪の中心にあたる町を知り、そこに通うようになったのは、たいしてお酒が好きでもないのに「いきつけの店」を作りたいという私の無意味な思いつきからでした。それほど豊かでない私の当時の財政状況と、怖い目には遭いたくないという希望と相談した結果、ワンコインで飲める、安いスツールと、誰も弾かない古いギターが壁にかけてある、陳腐な英語の店名がついた飲み屋で知り合いになった和食屋の大将が紹介してくれたからです。



和食屋の大将はとてもいい人で、「仕事でなかなか稼げないので最近、お金がなくてなくて。」という私の言葉を受け、私が何の仕事をしているか、学生なのかを訊かないままで、天六の駅から降りてすぐの場所にある学校の夜間部受付業務を、すぐにでも通い始めるといったような形で決めてきてくれました。私は他に仕事をもっていたので、強引で無茶な話だし、断らなければと思っていましたが、よくよくわが身を考えてみればそれほどお金があるわけでもなく、やってみるのも面白いかもしれないと考え、かっこよく言うところの"ダブルワーク"を始めました。

仕事のある日は授業の始まる前に学校に着き、生徒用の出入り口のところに、開業医の受付でよく見るタイプの「出席カート*2」と書かれたカード受けをカウンターの上に置き、投入されたカードを元に出欠簿をつけ、休むという連絡の電話と受けたり、先生に授業の用意してくれと依頼された際、備品を倉庫から出すぐらいで、先生が授業を行っている間は、デスクでなにをする必要もなく、無駄に整理整頓や掃除をやりつくした後は、学校の備品として使われずに置いてあった文豪MINI*3を使って書き物をしていました。
夜間部は常に二名で仕事をすることになっていて、私はウィークデイに毎日出勤ですが、一日おきに、正規職員であるおいしんぼの係長にそっくりだけどやさしい部長、アル中で通風でオーディオヤクザで本が大好きでグルメで社員の北さん*4が夜間残業として詰めていました。仕事を教えるという作業はニ、三日で終わってしまい、暇つぶしも兼ねて、かなり年の離れた私に自分たちの好きないろいろな事を教えてくれました。

おいしんぼの係長は、見た目が狡猾なねずみによく似ていたのですが、そんな外見をしていると思った自分を申し訳なく思うほどに優しい人で、ローラ・ニーロジェスロ・タルジョー・コッカーなどの"派手ではない"曲をいろいろと教えてくれました。持っている音源がすべてカセットテープだったので、当時すでに使われなくなりつつあったダブカセ*5で、実際の演奏よりもほんのすこしだけ間延びしたものを、文字通り"頭を傾け"ながら、音を絞りながら聴いていたことを思い出します。

もうひとりの職員、北さんですが、わかりやすいお酒のみで、痛風でアル中でした。通風についての知識を私に与えてくれ、食べていいもの・良くないものについて語りながら、しょっちゅうプリン体についてぼやき、足の裏が痛くて歩けない、尿の切れが悪い、ごめん、隣の酒屋でビールを買ってきてくれいや発泡酒にしておこうか・・・と頼んだり、もう・・・大人なんだからと心配してたしなめたくなるような様子でしたが、連れて行ってもらわなければ行くこともないようなカツサンドの店、北さんの友達*6が開業したフレンチレストラン、ショットバー、中国の海産物を輸入している元に行ってブーメラン食べ放題など、地味な普通の職員とは思えないような行動範囲で、どのポイントを気に入っってくれたのか私を連れてまわしてくれ、見たことのない世界を知ることができました。

そんな北さんが、ある日「ちょっとこっちに来いと私に小声で声をかけ、学校の玄関を入ってすぐの応接室で、エズラ16というお酒を計量カップに注ぎ、「すこし寒いから暖房代わりに」と私に渡してくれながら、すこし太めの自分のウエストを指で指し示し、笑いながらコレコレ、ちょっと見てみろよと言ってきました。怪訝な顔で、北さんの指の先を見ると、スーツの間からピンク色で、すこし透けた下着を引っ張り出していました「これ、パンティだよ」と、真顔で、発語することに抵抗のあるその単語を、今までに聞いたことのないほどのスムーズさ(照れがゼロパーセント)で言い放ちました。当然面食らって「は・・・パンツですか(パンティとは心の中の何かがストッパーとなって発音できなかった)」と答えたのだけれど、真顔で「パ・ン・テ・ィ、いわゆる女性用の下着ですな」と訂正して、誇らしげな顔で(アル中なので鼻の頭の毛細血管が切れて赤いのか、いい気分で赤いのかは謎だけれども)それを私に誇示していました。

「履き心地いいんだよな。サラサラして、すこしはみ出ながらも優しく包んでくれるこの感じがな。落ち着かないのに安心する。たとえるなら、乗ったことはないけどハンモックやで。やってみるべき。若いうちに経験しておけばよかった・・・」私は自分では常識というか、かくあるべきという、凝り固まった考えから自由な人間だと思っていましたが、それが自分に対する思い上がりだと知りました。まだまだどころじゃない。私だったら、もしその女性用の下着*7の心地よさを知ったとしても、かなり年下の人間に、照れずにそれを伝えることは出来ないと実感、己の人間として持っているそのサイズの小ささを感じました。川端康成の「掌の小説」や、ミシェル・ペトリチアーニというジャズピアニストについて教えてくれるのと同じ温度で女性用下着について魅力的に、包まれる感じをジェスチャーつきに語る言葉の豊かさをうらやましく感じました。

履き心地の後に、すこし照れながら、どうして今パンティを履いているのか、教える必要などないのに教えてくれました。
北さんはアル中ですが、友人関係が多岐にわたっていて、それらはすべて飲み屋で知り合った人々のネットワークでした。その当時ででもかなり太っていましたが、深い二重まぶた、通った鼻、低くて落ち着いた声を持ち、アル中特有の鼻の頭の赤さを除けば非の打ち所はなく、飲んで話せばすぐに人に好かれる才能がありました。しかし、私の前では「低い声で相手の話を優しく肯定して、いくつかソフトに価値観を変えてやれば、こっちをすぐに好きになる。その後でこっちのダメさを散々アピールしておくと、それから上がるばっかりだから楽」という恐ろしいほどの計算がある中悪魔でした。だから、いつも酔った女性と、酔い酔いのグダグダした状態から始まる中途半端な付き合いをするのが常で、いつも北さんを怒りながら笑っているような人と一緒に居ました。下着の持ち主もそんな風にして知り合った女性のひとりだったのかも。

「俺さ、女と飲んで、店を出てから、明け方に牛丼が食いたくて吉野屋に行きたかったんだよ。それで歩いて天満の駅の方向に向かって歩いていたんだけどさ、途中でさ、ウンチがしたくなったんだよ。明け方。周りに開いている店がない。それで酔っているし、いろいろと体の状態も悪いからさ・・・我慢できずにもらしたんだよ」
「もらしたって・・・」と聞き返したら、堂々と「たまにやるよ」と使命感に燃えた若者*8のように表情を変えずに答えて、そんな無駄なところで引っかかるな、ポイントはそこじゃないとばかり話を続けました。
「ウンチがさ、ズボンの中を落ちていくのが分かるんだよな。ホント気持ちが落ちる。その時はさすがにすこし悲しくなる。それで、そんなの隠しようがないじゃないか。においもあるし。だから仕方がないから女にウンチを漏らしたと言ったんだ」
私は女の人に隠すことなくウンチを漏らしたと卑屈にならずに言える北さんを無駄にすごいとリスペクトしました。そしてその話を私にする度胸も。本当の意味でそれがどうかというのは問題なのですが、その時はそう感じました。

「女がさ、そこでオレに聞いたんだよな。もう出たんなら仕方ないから、ウンチの始末ほうを先にするか、牛丼を先にするかどっちって聞いてきいた。それでオレは先に牛丼が食べたいけど、ウンチを漏らしてるから店の中はアカンと思うって言ったら、さっさと歩いていって、特盛りを買ってきてくれて、、まだプールがあった扇町公園で食べた。食べた後でトイレに行って、オレはもう酒で動けない状態だったから、たぶん女がズボンを水道で水洗いしてくれて、トランクスを捨てて、なんでかカバンの中に持っていた自分のパンティをオレにくれた。それを今、はいている。言っておくけどもう今はきれいにしてるで。オレのパンツのローテーションに入ると思う。これはほんといいよ。履き心地。とにかく、オレの世話をしてくれた女に後から感動してさ、すごいやつと会えた、たぶん惚れた。また会いたいと思ったわ。それなのに電話番号と名前を覚えてないんだよな。どこで会ったのかも覚えてない。酒ってだめだなぁ」

それきり北さんはその人と会えなかったようでした。そんなに探すふうでもなく、すぐに諦めてしまったみたいでした。結局ふつうの暮らしの中だと、傍から見ていると始まったのか始まっていないのかよく分からないうちに終わって、時間があっさり過ぎて忘れていってしまう。そしてなにかをきっかけに思い出されたりするのですが、残念なことに私はイクヨさんのこんな文章で思い出してしまいました。すこし自分にガッカリ。

ふと部屋の片隅を見ると、この前泊まった女性のパンティが転がっていた(洗濯済み、もちろん私が洗濯しました)、私はそれを穿いてみた。

これを読んで思い出しました。ダラダラ長い文章になったので、むりやり半分ぐらいに減らしました。ここに意味はなにもありません。

*1:放射状に伸びる道路の中心部

*2:生徒が濁点を削除

*3:旧式のワープロ専用機

*4:本名ではありません

*5:ダブル・カセットテープ

*6:どこで知り合ったのかが激しく謎

*7:私はいまだにパンティと書く勇気があまりない

*8:若くなかったけれど